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山形県鶴岡市(庄内地方)とはこんなところ!
山形県の日本海側に位置する鶴岡市、酒田市を含む近隣の4市町村を総称して「庄内地方」と呼ばれ、江戸時代、酒井藩のお膝元として「鶴岡市は城下町」、「酒田市は国内の海運業」を盛んに商業都市としてそれぞれ発展してきました。 |
冬の庄内平野 |
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この地において他と違うところは、鶴岡市街地よりさらに西側海よりの町に酒井藩直轄の天領(藩財政のために、年貢未納税で産業開発、発展に従事させる地、幕領とも言われる)を置いたことです。その時代、大山村と呼ばれたその村には、広大な庄内平野から取れる「米」を原料とした「清酒」醸造が盛んに行われたそうです。現在その場所は「大山町」となり、人口約1万人ほどのその町に江戸時代には酒蔵が40軒以上も軒を連ねたそうです。 その酒蔵に付随し、桶屋、樽屋、たがや(樽や桶の修理保全の職人)なども軒を連ねその全ての人達が「天領」に居住することを許され、清酒造りの技術向上のために酒井藩をあげて尽力したそうです。 その結果、江戸時代後期になると酒田の港より北前船で関西はもちろん、関東、九州の長崎にまで高値で取引されるようになる。その当時、現代では隆盛をほこる新潟の地酒は「大山」の酒におされ、地元での販売もままならない状況で、なんとか「大山の清酒」に近づきたいがために大山の酒蔵に酒造りの見習いに来たそうです。その後、その人たちは故郷に帰り、「越後杜氏」と呼ばれたそうです。 高度な技術を確立した「大山杜氏」は請われて他県の蔵元に技術指導にも呼ばれ、優秀な人材を育てました。その一例として、秋田県の「山内杜氏」も、大正時代初めにその指導を受けた「働き」の人達が教えを基礎に努力した結果、今では銘杜氏を輩出する場所として名を馳せています。 しかし、その銘醸地も昭和の時代に入り、海運業から陸路の鉄道の普及により衰退し、第二次大戦後には企業解体の法令のもと、多数の蔵元が廃業の道を選ばざるをえなかった。その後、銘醸地「大山」に残った酒蔵はわずか4軒! 「西の灘、東の大山」と並び称されたのも今は昔、しかし、清酒造りに対する生真面目なほどの情熱は400年たったいまも変わらずに、歴史の重みをたずさえながら今も清酒は「大山町」の各酒蔵で息をしています……。 |
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